すべては最初の四行に

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さて、初めのワン・フレーズ、「観自在菩薩。行深若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄」実は、このお経は、この四行の言葉、四つのフレーズで全部言い尽くしています。後はすべてこれの蛇足である。繰り返し同じ事を言っているにすぎません。

だから、皆さんはこの「観自在菩薩。行深若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄」という言葉を、理解されるならば、あとは読まなくてもよい、とこうなってしまいます。ところが、なかなかそうはいかないから、後が長々と続くのです。

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観自在菩薩。“観”というのは、物事を観察する、ですから良く見る。自由自在に何でも良く見える。菩薩様、菩薩というのは仏になるために修行をしている人を菩薩というのです。原名はボディーサトゥバと言います。ボディーサトゥバが修行していって、ブーダになる。最終地点がブーダである。仏陀である。

何でも、良く自由自在に観察する、見ることのできる菩薩様、修行者が、行深、深く行じていた。何を深く修行していたかというと、般若波羅蜜多という知恵を深く修行して、研究していた“時”という、最後は“時・・・じ”という。“照見というのは照らし見る。ですから、これは物をただ見るだけではなく、そこに懐中電灯を持って来て、パッと見る。非常に良く見えます。

照らし見る、一見する、ありありと見る。“五蘊”というのは色々な説があるが、簡単に考えると、我々の五感を通じて、入ってくる情報、即ち、目に見えること、耳に聞こえること、味わうこと、鼻で嗅ぐこと、皮膚でタッチして感ずること、この五つの感覚により体内に入ってきた情報というのは、本来は“空・・・くう”である。

空体である。ということを発見し、これを発見したとたんに、“度”というのは、解決する、という意味です。解決した、何を解決したのか、一切の苦しみ、災難、というもの、苦厄、悩みというものを、一切解決出来た、とこういう訳です。

さあ、皆さんも、もし数学でいう、「逆も真なり」というようなことが、ここで成り立つものならば、我々の一切の悩みというものは、五感で感ずることが“空”だということが理解出来れば、全部なくなってしまう、とこのようになる。逆も真であれば・・・。必ずしも、逆も真ならず、というのもありますが・・・。

私は今、少し疑問を持っています。キリスト教では、「神は愛なり」というが、そうすると、「愛は神ですか?」とこう聞きたくなる。そうだ、という人も、そうでない、という人もいるかもしれません。しかし、そうだとすると簡単ですね。我々は愛情を持った時には、皆、神様だ、ということにもなりますからね(これは余計なことですが・・・)。

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