ちょっと皮肉な論語の読み方

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まず第一に、論語とはどういうものかというと、みなさん、もう小さい時から論語の中の言葉で聞かない人はないと思われる有名な言葉、広く知れわたっている言葉がたくさんありますね。例えば『過ぎたるは及ばざるがごとし』なんていうのがあります。これは論語から出ているわけですね。『義を見てせざるは勇なきなり』なんていうのもあります。

この論語というのは、紀元前四五〇年くらい前に、孔子と、その弟子の間に交わされた言葉を主として、約五百くらいの短かい言葉をよせ集めてあるもので、二十章、二十編に分かれています。最初の『学而編』から、二十番目の『尭日編』までです。

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しかしこんなことは覚える必要はない。ここでは、他の人が論評するような、孔子というのは偉大な聖人であって、その説かれた言葉は珠玉であり、人が範として、それに従うことによって人格者になれるといったようなこととは違った面からとらえてみたいと、こう私は思っております。

まず最初に、孔子の言った言葉というのは、すごく短かいんです。短かくて、しかも前後に説明がぜんぜんない。そしてこの論語、ずっと通読してみますと、支離滅裂なんですね。さっき言ってたことと違うじゃないか、ってことがたびたびあるんですよ。そこで、まず第一に皆さんに注意しておきたいのは、ここにある言葉を、一つの定義だと思ってはいけないということです。人生における定義だと思っちゃいけない。そうじゃないんですよ。これは、いわば孔子がケースバイケースで、こういうときにはこういった、ああいうときには違うことをいった、というような、いわば座談的な言葉なんですね。ですからその時には合うけれども、人生一般、どんなところにも適合するかというと、多いに疑わしい点があります。

じゃあこの論語をどういうふうにとらえるかというと、昔からの論語学者は、そこに何かルールを作って、それぞれの解釈をしているわけです。例えば、日本で論語の解釈者で有名な人を二人あげると、荻生そらい、それと伊藤仁斎という人がいますね。荻生そらいという人は儒学者で、古文辞学派の人であり論語の研究もしていた人です。伊藤仁斎という人も儒学者で、人間の人道的な愛というものはどういうものであるか、それを論語に求めた人ですね。それぞれに、その人なりに論語から何かを引き出しているところがある。

では僕はここでルールとして何を土台にして論語を論評したいかというと、これは無能唱元流のひとつの宇宙観、人生観として僕の提唱する、「五大本能論」と「意識のロゴス・カオスへの二辺往来論」というこの二つの論を根本において論評していきたいんです。ですから僕の「五大本能論」を知らず、そしてまだ「ロゴス・カオス論」という講義を聞いたことのない人には、なんかわけのわからないような、聞いたことのない論語の解釈であるというふうに思われるかもしれません。

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